金剛院
群馬県沼田市
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水掛け不動尊
この石庭は、東北の霊山鳥海山の銘石鳥海石大小108個を組み合わせ、庭師武井良一氏が精根こめて1年を費やし築造したものであり、今は亡き武井氏の一代傑作として後世に名を残すものと思う。
倉内城の松の緑が今も輝く

 北関東三十六不動尊の二番霊場である金剛院は、天台宗の寺院であるが、明治十四(一八八一年、成田山新勝寺から不動明王を迎え、「成田五大尊講」(現沼田成田山金剛講)で大いににぎわったという。現在でも厄よけで知られ、節分には市内、郡内ばかりか前橋・高崎方面からもたくさんの人が参拝、ご祈祷、年男、年女の豆まきが行われる。

 また門を入った右手には、水掛け不動尊がある。「諸願成就 北関東唯一霊場 節分大祭第六十回奉修記念」として、昭和五十五(一九八〇)年に完成したものである。水を掛け、手を合わせ、祈願する人が絶えない。

 倉内城から移した「金剛の船松」は、樹齢四百年、今なお「帆に満風を受けて疾走する船のごとし]といわれるままの雄姿を誇る。全長十五メートル、高さ五メートルの松で、水掛け不動尊の隣にある。


金剛の船松
境内に雄然と枝を張っている老松は、13世賢雄法印が城中出仕の折り、沼田城内にあった黒松を藩主より拝領して移植されたもので、その名を「金剛の船松」と呼び幾多の雑誌に紹介された。
樹齢 約450年(黒松)、全長 15メートル、高さ 5メートル


冬の風物詩“雪吊り”金剛院船松45年ぶりに復活!

日本海側や東北地方などの豪雪地帯で、雪の重みからくる枝折れを防ぐ工夫で日本庭園などによく見られます。
とくに兼六園の雪吊りは有名で、見たことのある方も多いのではないでしょうか。
沼田城から移した「金剛の船松」は、樹齢450年(黒松)、今なお「帆に満風を受けて疾走する船のごとし]といわれるままの雄姿を誇る。全長15メートル、高さ5メートル。
 

 
週間利根(H27年1月11日)掲載
マイタウンたにがわ(H27年1月15日)掲載




山門(薬医門)(仁王門)
旧山門は沼田城の西門を移建したもので、桔梗文瓦を使用した門であった。

竣工:不明
改築:昭和33年8月(老朽化したため)
解体増築:平成19年
仁王門落慶:平成20年
構造・規模:木造、切り妻造、瓦葺
金剛力士像:平成20年

向かって右に阿形(あぎょう、口を開いた像像)、左に吽形(うんぎょう、口を閉じた像)を安置する。仁王様はお寺の境内や本尊諸仏をはじめ参詣の人々を守って下さる仏さまです。吐く呼気と、吸う吸気をあらわし、二人の呼吸がピッタリ合うので「阿吽(あうん)の呼吸」という言葉は、この仁王様からうまれたのです。

材料:木曽檜、極彩色、裾等截金寄せ木造り
仁王尊造顕作者:前橋市元総社町 大仏師 近藤 晃先生
仁王門設計:沼田市坊新田町 高宮工業(株) 高宮健吾
大工棟梁 星野吉利
金剛院名誉住職 伊藤亮祐



金剛院仁王尊像について

 仁王尊は、元来、東大寺法華堂の執る金剛神のように一体のものでしたが、その分身として阿形(口を開ける)と吽形(口を閉じる)の二体となり、本尊や山門の左右に配置されるようになってからは、二王尊または仁王尊と呼ばれるようになりました。

 仁王像としてよく知られているものに東大寺南大門のものがあり、また興福寺の金剛力士(阿吽二体)やこれらとほぼ同形の蓮華王院(三十三間堂)の二十八部衆の中の那羅延堅固王(阿形)と密迹金剛力士(吽形)の二体が代表的なものです。

 仁王尊の配置には、向かって左に阿形、右に吽形を置く東大寺南大門の稀な型式と、右に阿形、左に吽形をまつるより一般的な型式(興福寺型)とがあります。

 仁王像の体形についても東大寺型と興福寺型とに大別することができます。

 金剛院仁王像は、木曽檜材の寄木造りで出来ています。体形は興福寺の金剛力士や蓮華王院の二像を参考にして、両眼には、水晶で作られた「玉眼」が目蓋の後ろからはめられています。「玉眼」は水晶をレンズのような形に磨いたもので、裏に截金(きりがね)で金色の輪を画き、中を黒く描いて瞳を表し、白眼の部分は玉眼の後ろに白い綿をつめ、血走ったところは、綿の繊維を赤く染めたもので表現しています。

 顔の表情は、怒りの中に優しさを表現するために、阿形は新薬師寺の十二神将の内の伐沙羅大将のお顔を、吽形は東大寺戒壇院の四天王のうちの廣目天のお顔を模写させていただきました。

 仁王像の眼は、普通、阿吽両形とも、カッと見開いた大きな眼をして他を威嚇しているものですが、金剛院の吽形は細い半眼に近い眼をしているので不思議に思われることと思います。戒壇院の四天王のうちでも廣目天のみが異端とも思える細い眼をしているのです。しかし、次の理由からその廣目天のお顔を拝借しました。四天王には獅噛がついています。獅噛とは牙を剥いて肩や腹帯に噛み付く形の獅子の頭です。ところが不思議なことに廣目天の獅子は牙をもっていません。このような獅噛みは恐らく他の寺院にも例を見ないのではないでしょうか。総てを許し受け入れる優しさの表れでしょう。この優しさにあやかって人の心を洞察するような優しい眼をもったお顔を写させていただきました。

 像の彩色模様は、色褪せてはいますが興福寺の紋様を参考にさせていただきました。阿形の裳には一羽の立ち姿の鳳凰を中心とする卵型の宝相華団花紋を配し、裾縁には雲龍模様を高蒔絵風に盛り上げて画きました。また吽形には、漆箔による金色の輪宝を中心とする宝相華団花紋を配し、裾縁には鳳凰と唐草を交互に配しました。色調は、興福寺金剛力士の紋様の色素成分の分析結果にしたがい、朱・緑青・白緑・群青などの繧繝(うんげん)模様をアクリル絵具で表現しました。

 裳裾の縁の境界には、截金(きりがね)による二重金線を入れ、紋様の輪郭線は金泥により金線を表現し、全体として格調を高めました。  晃進 自註






参拝案内
開堂時間:9時00分
閉堂時間:17時00分


※冬季期間は降雪等の為、閉堂時間を早めることがあります。
※法要・行事等で入堂を制限させて頂く場合がございます。

本堂
天明7年20世覚便法印の代に建立。正面7間(15.654メートル)、側面6間(右側面11.345メートル、左側面12.284メートル)の入母屋造りである。正面には向拝1間を付ける。屋根は現在瓦葺とするが、当初は寄棟造、茅葺である。


鐘楼堂
昭和46年町内外はもとより、十方有縁の檀信徒300余名の寄進により建立されました。


本堂正面

仁王門


樹齢300年のドウダンツツジと庫裡


燈明祭り




澤田様 (栃木県)  より


五大尊講
 金剛院の不動明王は明治14年4月12日、28世入沢亮海法印によって、千葉の成田山新勝寺より勧請した尊像であり、これを記念してこの年沼田の有志によって「沼田五大尊講」が結成され、金剛院を要として活躍されてきたものであったが、明治末期に金剛院は無住となってしまったので、以来「五大尊講」は寺を離れ有志の手で運営されるところとなってしまった。


節分会追儺式
 大正13年、30世伊藤亮譲住職のとき第1回の」豆まきである節分会追儺式が奉修された。当時の世話人は中村仁平治氏を中心に、金剛院の近所の人や、馬頭観世音の世話人たちによって奉仕されてきたものであり、昭和11年荒井新一郎氏が中心となって以来、この世話人会を「成田山金剛講」と称し今日に至っている。追儺式は大戦中と云えども中止することなくおこなわた。追儺式には近郊近在より年男年女、参拝者が1万人を超える。


旧山門
 昭和33年荒廃甚しくなってしまった山門を取り壊したが、この山門は沼田城の西門であったと云われており、維新沼田城取り壊しの時、この門だけは金剛院に移築されたものであった。と、伝えられているが、或いはこれは西門でなくて単なる通用門であったとも思われる。なおこの山門の桔梗の紋入り瓦は寺で保存されている。


須賀神社との関係
 金剛院は真田時代より須賀神社の別当寺とされていたが明治初期、神仏分離が行われ独立した。


学童疎開
 第2次世界大戦中の昭和19年8月、東京板橋の第四小学校の生徒100名が金剛院に学童疎開した。


坊新田町の沿革
 戦国時代の戦乱が治まり真田信幸城主によって坊新田町は寺院区域として誕生したもので、ここに次々と寺が建てられ坊新田通りの東側半分は寺院領でしめられ、西側と木戸下に民家が点在し50余軒を数えた。

 当時の沼田には武家屋敷なるものが約200軒、町家は約400軒であったから町家の一割強がそれでも坊新田町に住居していたことになる。

 この坊新田町は江戸時代沼田の大手門通りであり大名はお馬出しから坊新田町を通って栄町、沼須町、昭和村森下を経て江戸に向かったところの主要道路で、いわば沼田の表玄関でもあった。




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